Re-Envisioning Kamakura Buddhism

Date
Nov 11, 2013, 6:00 pm6:00 pm
Location
202 Jones Hall

Speaker

Details

Event Description

Abstract

Uejima Susumu

Kyoto University

 

「鎌倉仏教再考」(報告要旨)               上 島 享

 

 鎌倉新仏教論は日本における近代史学、さらには日本中世史の形成と密接に関わり生また。「旧仏教」「新仏教」という概念そのものは中西牛郎『宗教革命論』(博文堂、一八八九年)に初見し、明治二〇年代以降、浄土真宗の学僧らにより鍛えられ、鎌倉新仏教論の基礎が築かれていった。そこでは、「旧仏教」はカトリックに、「新仏教」はプロテスタントに擬されていた。これを歴史学の概念として明確な位置づけ与えたのが原勝郎である。『日本中世史』(冨山房、一九〇六年)において日本史に中世という時期区分を導入し、武士を中世の担い手として高く評価した原は、「東西の宗教改革」(一九一一年)で法然・親鸞らの活動を一六世紀に西洋で起こった宗教改革に重ね合わせた。こうして、腐敗堕落した貴族や「旧仏教」に代わり、草深い農村より武士が起こり、真に人々の救済を目指す「新仏教」が生まれたとする中世理解の骨格が固まった。政治・社会・宗教が結びついた中世像が示され、そこには西洋近代を理想や目標とした、当時の日本人の意識が投影されていた。そして、日本中世を武士、「新仏教」の時代とする原の理解は戦後にも受け継がれ、新仏教論は家永三郎・井上光貞らによって精緻に補強され、新仏教形成の歴史過程を示した井上光貞『日本浄土教成立史の研究』(山川出版社、一九五六年)はその到達点といって良い。

 この原が描いた体系的な中世像に対して、代わるべき枠組を提示したのが黒田俊雄である。権門体制・顕密体制・荘園制社会の三本柱から描かれる中世社会の全体像は旧来の認識を一新するものであった。顕密体制論では、国家・社会との関係を基軸に置くことで、従来、「旧仏教」とされてきた顕密仏教を中世仏教の中心に位置づけたことが重要である。

 顕密体制論の研究史上の意義を高く評価した上で、残された課題を三点あげたい。第一に、顕密仏教と中世仏教との質的差異が必ずしも明確ではないことである。「顕教」「密教」を教判の根本に据え、明確な概念規定を行ったのは空海で、彼は自ら請来した真言密教が既存の仏教(顕教)とは異なることを強調した。「顕密」とは仏教全体を意味し、具体的には南都・天台・真言の八宗たることは、ここに始まる。また、現実に奈良後期より諸宗の形成が進み、平安初期には顕密八宗が確立する。つまり、思想的・歴史的にも顕密仏教(顕密八宗)は平安初期にできあがった。この顕密仏教と中世仏教との差異が問題となる。

 黒田は真言・天台宗の形成をうけ、鎮魂呪術的基盤の上に密教による全宗教の統合が進み(九世紀)、全宗教の密教化の中で各宗固有の教理・教説ができ(一〇世紀)、王法仏法相依思想の成立で集団として八宗が世俗社会より正当性を公認され、国家権力と癒着結合した顕密体制が確立すると述べる。しかし、密教化を軸に論じることには問題がある。顕教と密教とともに独自の役割を果たしつつも、互に影響を与え合い融合しているのが実態で、いずれかが優位であったとはいいがたい。密教化の論理を除くなら、その形成過程を踏まえた顕密体制の特質といえるのは中世国家権力との癒着となる。平雅行は黒田の意図を汲みつつ、「中世宗教」を「民衆の解放願望の中世的封殺形態」「中世民衆の内面を縛る新たな呪縛体系」と定義する。もちろん国家・社会との関係は重要だが、中世仏教そのものの特質を解明することが先決だろう。つまり、古代から中世へと国家・社会が変化する過程で、平安初期に成立した顕密仏教の思想的内実がいかに変化して中世仏教が成立したのか、その考察が重要な課題だと考える。

 第二に問題としたいのは、顕密体制を国家権力と癒着結合した宗教体制とする黒田の議論では、「正統」対「異端=改革運動」との二項対立図式が論理の中心に据えられ、それが顕密体制の展開(平安後期の聖の活動)から崩壊(戦国期の一向一揆・法華一揆など)までを論じる基軸にもなっている点である。そして、正統・改革派・異端という分析概念の導入が「新仏教」「旧仏教」概念の破綻を宣言したものだと評価される。しかしながら、「新仏教」を「異端=改革運動」、「旧仏教」を「正統」と位置づける顕密体制論の論理構成は、鎌倉新仏教論の全くの裏返し、まさに一八〇度評価を逆転させたものである。「正統」(「旧仏教」)か、「異端=改革運動」(「新仏教」)か、いずれを中世仏教の中心にすえるかは正反対だが、新仏教論も顕密体制論も、中世仏教を単純な二項対立の図式―二元論的な枠組―で分別し、一方を高く評価し、他方を消極的にみる点においては同根だといってよい。それゆえ、評価は真逆だが、個々の事実認識では顕密体制論が新仏教論における理解を継承している点が意外に多い。

 「正統」(「旧仏教」)、「異端=改革運動」(「新仏教」)のいずれを高く評価するのかは、最終的には研究者の価値観や視座に基づき、この点をいくら論じても、有意義な議論になるとは考えがたい。問題とすべきは顕密体制論が新仏教論より継承した二項対立図式である。現実には中世仏教をきれいに二分することはおよそ不可能で、両者は複雑に絡み合い融合しているというのが実態だろう。かかる混沌とした現実を、総体としていかに描くのかが課題となる。

 三点目として、顕密体制やそれと一体の権門体制がいつまで存続したのかである。中世を通じて維持されたとするのが一般的な理解だが、私は顕密仏教が日本仏教の中心たる時代は九世紀から一四世紀までとみる。この点は時期区分論とも関連させ、中世後期の展望を含めて具体的に論じたい。

 顕密体制論が顕密仏教を中世仏教の中心に据えることで明らかになった事実は多いが、同時に、鎌倉新仏教論が強調した信心・信仰など切り捨てられた論点も少なくはなく、両論ともに中世宗教の一面を活写したが、その豊かな全体像を描き切れてはいないのである。その根本的な原因は、中世仏教を単純な二項対立図式で弁別するという論理的枠組にあると考える。ここでは二項対立論は採用せず、諸事象を融合的かつ包括的に把握することで、その全体的な特質を掴み取りたい。つまり、正統(旧仏教)と異端(新仏教)のすべてが中世仏教の重要な構成要素で、極端な主張のなかにも中世仏教の特徴が顕われていると考え、その総体的な把握を図る。少なくとも中世前期においては、国家と結びついた顕密八宗(顕密仏教)が重要であることは間違いないが、それを「正統」として、国家との関係を基準に中世仏教を二分する顕密体制論からは距離を置いて議論を進めたい。

  本報告では、以上の点を新たな視点から論じていきたい。